【特集】東日本大震災から10年。当時の現地取材を振り返る。

編集部員Tです。

東日本大震災からもうすぐ10年。

私は普段自営業で映像制作のディレクターをしており、取材で色んな現地を尋ねる機会があります。

そして私は2011年3月11日の大震災から約1年後、とある財団様からのお仕事依頼で東北各地の現地の人と出会い、震災から一年経った今、当時の様子を振り返るインタビュー取材を行いました。

今回は「スペシャル特集記事」と題し、追悼の意を込めて当時の取材を振り返りたいと思います。

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3月11日、震災発生

3月11日、空は晴れの東京。

いつもと変わらない変わらない昼下がり。
私はパソコンに向かい映像編集を行っていました。

連日の徹夜がたたって少し疲れ気味の私は、事務所のベランダで少し休憩を兼ねてぼんやりと外を眺めていました。

すると突然小さな揺れが起きたと思ったら次第に大きくなり、棚やらパソコンのモニタやらが揺れて、ついには倒れてくる事態になりました。

幸いベランダにいた私は難を逃れ、念の為外に避難しました。
外の街路樹を見上げると大きく波打つように揺れていたのを覚えています。

しばらくすると激しい二回目の揺れが襲ってきました。

一度目よりも大きく、私は歩道に伏せって速く時間よ去れ!と祈りながら何とか難を逃れました。

大大震災の具体的な情報は皆さまもニュースでご承知だと思いますのでここでは割愛します。
東北各地は原発事故を始め、津波で大きな被害を受けました。

そして私はリード文で述べたとおり、その1年後にとある財団様からの依頼で東北各地へ取材に出かける事になったのです。

栃木県〜犬猫みなしご救援隊〜

犬猫みなしご救援隊さんによって保護された犬

東京からの出発で、尚且つクライアントへ出した見積もりはかなりギリギリな予算でしたので、取材の期限は一週間。

私はカメラマンのW君と共にまずは栃木県の那須市に向かいました。

到着したのは震災で飼い主からはぐれた犬猫を保護するNPO法人の「犬猫みなしご救援隊」さん。

当時は限られた敷地内で500匹程度の犬や猫、他に馬も保護されていました。

とにかくボランティアの人手が足りず、保護する動物たちの資金も足りない。

そんな状況下で「犬や猫だって同じ生命、見捨てやしない」そう語る同施設の理事長さんの言葉に、私は向けるマイクに自分の命の重みを問いかけながらインタビューを行いました。

取材を終えて思った事は、人も動物も命は等しいものだということ。

何よりも飼い主とはぐれた動物、愛する動物を失った飼い主さんの事を思うと不憫でなりません。

施設を覗かせていただくとかなりの数の動物が所狭しと保護されており、少なくとも衛生的とは言い難い状況の中、職員さんたちは足りない人数の中で必死に動物の世話をする姿に、力になれない自分のはがゆさを感じてなりませんでした。

犬猫みなしご救援隊さんは現在も活動を行っており、未だ引き取り手のない動物たちのために今日も一生懸命の行動を行っています。
【リンク】犬猫みなしご救援隊

群馬県〜片品村役場〜

積雪の終わりがまだ遠い2012年2月の片品村

茨木を後にした私達は少し変則的ですが群馬へと向かいました。

群馬県片品村が多くの被災者を受け入れたと聞いたからです。

片品村に到着した私達は、役場の村長さんにインタビューを行いました。

人口約5200人の片品村。
とても小さなその村は震災の避難民の力になるために予算1億円を使い、被災者1000人を受け入れる割断をしました。

その英断にどれだけの人が救われたことでしょう。
日本中で多くのボランティアや寄付が行われる中、この小さな村が起こした大きな行動は私達の胸を穿つものでした。

人々が困っている。だから協力する。
その当たり前が中々に出来ない。ましてや個人ではなく、団体単位になると。

もっと色んな話を聞きたいと思いながらも私達は片品村を後にします。

※ここでは記載を省かせていただきますが、他にも同片品村の「むらんてぃあ」さんというボランティアチームにも取材をすることができました。現在は活動を終えています。

宮城県〜隊友会、鎌田医師〜

記事の都合上割愛とさせていただきますが、取材は宮城県へと移ります。

復興ボランティア団体の「隊友会」さんと、同県民の医師である「鎌田先生」のインタビューを行いました。

どちらもボランティアの方たちですが、自分にしか出来ないことを活かし、被災者の方々の力になっておられました。

宮城県を後にした私達は最後の地である岩手県へと向かいます。

このとき連日の遠征でカメラマンのW君と私も疲れており、運転は仮眠を取りながら気をつけつつ、取材約束の日時に送れぬようスケジュールの駒を進めました。

今までは主にボランティア目線の内容でしたが、残る2つの記事は被災者側・救助側目線の苦しい現実へと話は移ります。

岩手県〜大槌保育園〜

亡くなった園児達のためにみんなが折った千羽鶴

岩手県大槌町。そこに到着した私達を待っていたのは、笑顔と元気な声を発する園児達が集う「大槌保育園(現おおつちこども園)」でした。

震災当時、園児たちはお昼寝から起きたばかり。
地震で保育園は大きく揺れ、危険を察知した保育士たちは園児を引き連れて裏山に避難しました。

そして直後、下を見下ろすと黒いうねりに全てが飲み込まれていく光景。

恐怖に震えながら波が引くのをただ待つばかり。

数日後、職員さんに衝撃的な事実が判明しました。
園児の9名が津波の犠牲になったのです。


私は自身も子どもを持つ身です。
ただただ絶句することろなんとかこらえ、インタビューを続けました。

しかし気持ちがどうしても同調してしまうのです。
恥ずかしながらも涙を流しながらインタビューを終えました。

インサートカットを撮影するため、昼過ぎに再度保育園を訪れました。

丁度お遊戯の時間で、寒さに震える私達を温めるような無邪気な笑顔たちが印象的でした。

しかし対象的にその姿に1年前を思い出したのか、涙を流しながら園児を見守るお母さんの姿があり、それが私は今でも忘れられません。

岩手県〜大槌消防団〜

犠牲になった大槌町の慰霊祭

最後に訪れたのは同大槌町の消防団

私達の疲労はピークに達していましたが、被災者やそれを助ける人たちのことを思うと粘らなきゃと。取材を通して徐々に気持ちの昂りが醸成されてきました。

大槌消防団さんは当時震災直後にすぐ住民に避難や災害を知らせるために町中を駆け回りました。
そして避難活動と救助活動に尽力。

その結果、11名の隊員さんが死亡・または行方不明となります。

私は消防団の団長さんにインタビューを行うことができました。

一年を振り返って消防団に芽生えたのは悲しみの連鎖ではなく、失ったからこそ芽生えた団員たちの「絆」。

私はその言葉に背中を押されました。

だって色んなところにインタビューをするたびに、私達は気持ちが深妙に落ち込んでいくのをかんじていたからです。感化されすぎました。

でもそのポジティブな団長の言葉に気持ちが救われ、私達は事故もなく東北の取材を終えることが叶いました。

東北各地の取材を終えて

他にも被災にあった会社と被災者個人宅にインタビューを行いましたが、今はもう私のハードディスクには取材データが残っておらず。なので今回記事に起こすことができません。

10年前の取材を通して学んだのは、失われた命の大きさとともに、多くの人が「財産」を失ったということです。

ある人は家をなくし、ある人は大切な思い出の品をなくしました。

東京に戻った私は、今ある生活や命がどれだけ大切なものかを実感しました。

「当たり前の日常」が突然消える瞬間。

その現実を現地で直に感じた私は、では今自分にできることは何か?

を考え、それは「取材」という宝物を通して「映像」に仕上げるのだと。
それは自分にしか出来ないことだと思い、制作に取り組みました。

あのときの取材は今でも私の心を支配しています。

良いことも、苦しいことも。

10年経った今、私が出来ることはこうして記事に起こし、自分が体験したことを皆様にお伝えすることかなと。


「取材側目線」という形で、
あの日に祈りを捧げます。